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擇道 竭力(たくどう けつりょく)

 さて大なる目的にもせよ、小なる目的にもせよ、いよいよ志が立ったならば、次に必要なるはこれを達する道を択(えら)ぶことである。一の目的地に達するにも道路が幾条もあるように、一の目的を達するところの手段方法にもおのずからいろいろある。そこで目的はよくても、手段方法を誤ったならば、目的の達せられないで失敗に終るのはもとよりである。その手段方法の良否巧拙は、実にその結果に多大の差異を致すのである。青年は、一たび目的が定ると直情径行これを達するに急にして、その手段方法を講ずるに疎なりという傾きがある。そうしてこれがためにせっかく立てた目的をも貫徹し得ずして、空(むな)しく失敗に終ることがあるから、よく注意せねばならぬ。

擇道 竭力01

 しからばどういうのが最良の手段かというと、なるべく無用な事をせずに、最もよく目的を達し得るものをいうのである。よく思慮を加えないと、近道と思っても実際には遠い険しい道になっている事などがある。迂遠(うえん)のようでも、その実近道の事もある。一の目的地に達するに、自ら紆余曲折(うよきょくせつ)の存することを顧みないで、山も川も野も林もあるのを構わず、躁急(そうきゅう)にして直進しようとするのは、けだし自ら誤るのみである。ことに注意すべきことは、手段方法は必ず正道に依らねばならぬ事である。「目的は手段を択ばず」とか、「尺を枉(ま)げて尋(ひろ)を直うす」というがごときは、ともすれば人の囗にするところであるが、誤った考えである。不正なる手段によって善良なる目的が達せられると考えているのが、そもそもの誤解である。一方面から見ると、不正なる手段でも善良なる結果を生じ得るように見えるか知らぬが、不正な手段は他の方面に必ず悪結果を生じ、しまいに目的そのものをも破壊してしまうようになるのである。西郷南洲が「事大小となく正道を蹈(ふ)み、至誠を推し、一事の詐謀を用うべからず。人多くは事の差支うるときに臨み、策略を用いていったんその差支を通せば、跡は時宜次第工夫の出来るように思えども、策略の煩いきっと生じ、事必ず敗るるものぞ。正道をもってこれを行えば、目前には迂遠なるようなれども、先に行けば、成功は早きものなり」といっているのは、目的と手段との関係についてすこぶる適切なる教訓といわねばならぬ。

擇道 竭力02

 目的は空想でない、必ず実現し得べき望みのあるものでなければならぬ。手段もまたそうで、その人の能力と境遇とにおいて実行し得べき着実のものでなければならぬ。座上で想像を廻(めぐ)らしているときには、神算鬼策のように思える手段でも、さて実際となれば齟齬して何の益をもなさぬものが多い。ゆえに手段は常に着実の上にも着実でなければならぬ・しかし着実の好手段はちょっと見出し難い感がある。この手段の着実を得るようになるのは、思慮と経験との結果である。年少者にありがちなように、一時の考えにはやって、軽々に手段を決するようなことは、決して目的を達するゆえんの捷路(しょうろ)ではない、むしろ迂遠のようでも着実な手段を取った方がよいのである。

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