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小谷澄之 Sumiyuki KOTANI(1903〜1991)

小谷澄之

生年1903年8月3日
入門1921年11月23日
初段1922年1月8日
二段1923年10月1日
三段1924年7月19日
四段1924年12月23日
五段1927年10月31日
六段1932年7月20日
七段1937年12月22日
八段1945年5月4日
九段1962年11月17日
十段1984年4月27日
没年1991年10月9日

 1903(明治36)年8月、兵庫県生まれ。竹内流柔術の藤田軍蔵より柔道の手ほどきを受け、御影師範学校在学中の1921(大正10)年に講道館へ入門を果たす。上京して東京高等師範学校へ通うとともに、講道館で柔道修行に打ち込んだ。
小谷は背負投・大外刈・払腰などが得意であったという。嘉納師範は小谷について「小谷はよく自分の理想とする柔道を習得した」と満足げに語る程、小谷の実力を評価し亦可愛がっていた。
 小谷が勇名を全国へ轟かせたのは、1927(昭和2)年の第3回熊本・福岡対県柔道大会である。当時第五高等学校の柔道教師として派遣されていた小谷は、熊本県代表の大将として出場した。
試合は前半で福岡が優勢であったが、熊本の牛島四段が四人を抜いて形勢を逆転したかに見えた。然し上位陣で再び福岡が寄り戻した。熊本の大将小谷五段は、福岡の三将須藤五段と当ることとなった。須藤五段は力士上りで百キロ以上の大男、小谷五段は七十キロ足らずの小兵、須藤五段は徹底的に引分戦法に出て来た。試合が長引いて、引分の可能性も出て来た頃と思う。須藤五段の巨体が大きく宙に一回転して、小谷五段の背負投で勝負が決まった。二番目に出た副将森崎五段もまた百キロ以上あった。やはり熱戦が続いたが払腰で降している。いよいよ福岡の大将西五段との決戦となり、満場熱狂の極に達した。力戦奮闘二十分に及び「暫にて引分」を審判官が宣するや、小谷ややあせり気味に足払に出たところを西、逆に取っての足払が見事に極って福岡県の勝利に帰した。
最後、福岡の大将に敗れはしたものの、この名勝負は熱狂して見守る観客に強烈な印象を残したという。
 小谷は満州鉄道株式会社に入社し、ここでも柔道教師を勤めている。また、1932(昭和7)年にはロサンゼルスオリンピック大会にレスリング選手として出場し、5位入賞も果たしている。
 戦後は講道館に腰を据えて、渉外部参与や講道館道場最高顧問などを勤め、後進の育成に励んだ。1984(昭和59)年、講道館百周年に際し、これまでの功績を讃えて十段位が贈られた。1991(平成3)年、88歳で死去。講道館葬をもって送られた。

参考:「講道館柔道十段物語 "柔道一路"背負投の名人 小谷澄之」本橋端奈子

講道館柔道十段物語「"柔道一路"背負投の名人 小谷澄之」全文はこちらからご覧ください。  
(初出:講道館機関誌「柔道」2012年1月号)