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礼儀

嘉納治五郎

礼儀というものは、先方に対する自己内心の敬意または同情を外に表す法式であって、その法式はおのずからそれぞれの社会に定(さだま)っている。そうしてこれによって各人相互間の関係は規正せられ、意志の疎通 交際の円滑は遂げられ、かくて社会の秩序も保持せらるれば和親も全うせられるのである。

このような起原と目的とを有する礼儀について吾人はどんな事を心掛けねばならぬかというに、今いうように礼儀は本来内心の感情を顕(あらわ)すべきものであるから、まずその内心において真正にその外形に相当する感情、たとえばあるいは敬いあるいは愛しあるいは親しむ等の心掛けを有せねばならぬ。

世にはこの礼儀をば、それぞれに相当する真正の感情を持たずに行うものがあるが、それは真正の礼儀ではなくて虚礼(きょれい)である。虚礼の価値ははなはだ少ない。けれどもまたその心さえあれば外貌などはどうでもよいという事はいえない。真心がなくて外貌のみが礼に合したのではよくないと同時に、真心があっても外貌を欠いて礼儀の整わぬのも全きものではないのである。(中略)

礼儀は種々の関係の間に存するものであるが、長上(ちょうじょう)に対しては得て卑屈に流れやすいから、それに流れない範囲内において恭敬の意を表するようにすべく、同輩に対しては往々狎(な)れやすいから、少しくこれを厳格にすべく、また目下に対しては疎隔(そかく)に傾きやすいから、務めて和親を期するようにと、心すべきである。(中略)

礼儀に密接な関係のあるものは、姿勢と挙動とである。
これも社交上に重大な関係があるから、ここに一言しておかねばならぬ。姿勢や挙動というものは、人の外部に関するものであるから、さほどにやかましくいうには及ばない、精神さえ立派であれば何も深く介意せずとも差支ない、というように放言するものがある。これをちょっと聴く時は多少理屈のあるようにも見えるが、少し立入(たちい)って考えれば、甚だしい誤解であることは容易(たやす)く判明するのである。
前に述べたように人の精神と身体とは離れる事の出来ない関係を有しているもので、心は体の影響を受け、体は心の影響を蒙ること、あたかも影の形に従うがごとくである。したがって心にして敬虔和正であるならば、そはおのずと体の外部に顕(あらわ)れて、粛然(しゅくぜん)たる中に藹(あい)然(ぜん)たるところある風采 態度となり、体にして乱雑不整であるならば、心もおのずと粗慢(そまん)放縦(ほうじゅう)に流れるのである。この理(ことわり)によって観ると、姿勢と挙動とのゆるがせにしてはならないことは明らかであるから、青年者は常に姿勢挙動をもって各自のそれぞれの人格の発現と認め、早くからしてこれを修(おさ)め整えるようにしなければならぬ。

姿勢を正しくする目的をさらに詳細に調べてみると、これはおおよそ二種より成っている。
一つは自己の衛生と品位とを重んずるためであって、一つは他人に対して尊敬を失わないようにするためである。(中略)身体上の美というものは好ましいものであるが、その美を発現しようとするには、頭や四肢や胴の調和が必要である。(中略)それぞれ均斉を保って互いに過不及がなかったならば、ここに一の身体上の美は構成されるに至るのであって、古昔のギリシャ人は特にこれを重んじておった。さはいえこのような均斉を得るについては、平日務めて正しい姿勢を保持し、均斉的の運動をせねばならぬのである。

次に他人に対する尊敬の点からして姿勢を正しくせねばならぬ理由を述べよう。たとえば長者貴紳に面会した時などに、体を曲げたり、手を懐(ふところ)にしたり、首を傾けたりする等の事をするならば、習慣のやむを得ざるにもせよ、これはいかに礼を失(しっ)し敬を欠くことであろうか。けだし長者(ちょうじゃ)貴(き)紳(しん)をして顰蹙(ひんしゅく)せしめねば已(や)まぬであろう。否その及すところはただに一場の無礼に止まらない。かの長者貴紳等はこのような姿勢のものをもって、その内部の精神までも整わないものと認めるので、その面会の目的が達せられぬこともあろう。こういう訳であるから、青年者たるものは平日より姿勢を正しく挙動を安詳(あんしょう)にする事に注意し、規則正しくそれを履守(りしゅ)せねばならぬ。(中略)

次に挙動の事に移ろうが、挙動が、他人に対する上において慎まねばならぬものである事は、姿勢と少しも変りがないのみならず、なお一層切実に内心の特質を表現するのである。(中略)その坐作(ざさ)進退(しんたい)を慎んで静かにするは、思慮ある青年のたしなむところであって、洋服を着用していても他人の前で容易に胡床(あぐら)をかかないのは、これは我が国の礼法を重んずる精神に富んで自ら縦(ほしいまま)にせぬ青年である。(中略)

姿勢にあれ挙動にあれ、たちまちにして習慣となるものであるから、その良いところを習慣とした者の幸福は多大であると同様に、悪いところを習慣とした者の不幸は莫大である。
青年諸士は日常 意をここに注ぎ、自ら省(かえり)みまたは先輩の批評を乞いなどして、一方においては良い姿勢挙動の習慣を養い、他方においては悪い姿勢挙動の習慣を一日も早く除去せねばならぬ。態度を端厳(たんげん)にし、儀容を都雅(とが)にするのは、決してどうでもよいという問題ではない。これも畢竟(ひっきょう)自分の身を立てる階段なのである。

『青年修養訓』

柔道家の品格

嘉納 治五郎

およその人の品格というものは、なんらによって定(さだま)るものであろうか。品格を構成する要素は種々あるが、分りやすくいうてみれば、行儀作法、生活ぶり、交際ぶり、仕事ぶり、理想の五から構成せられるというてもよかろうと思う。

行儀作法
行儀作法とは姿勢、身形、立居振舞等のいかんをいうので、良い行儀作法とは姿勢の正しいことを意味するはもちろん、服装も整った風をしている事をいうのである。(中略)
人は品を良くするには多くの費用を要するように考えて、一般に実行できないことのように思うかもしれぬが、品の良いという事と贅沢ということとは全く違ったことである。無益な費用の掛らぬようにすることはいかなる階級の人でも心掛けなければならぬことで、ことに資力の乏しいものはその辺に心を用いなければならぬ。また、いかなる身分のものでも、その身分相当に賤しい賤しくないの区別はおのずから存するものであるから、その辺に注意を要するのである。

それから立居振舞であるが、それらの事も大いに人品の上に関係のある事である。それから仕事をするにも敏捷、道を歩くにも神速(しんそく)を貴ぶのであるが、立つにも坐るにも静かに、戸の開閉も物を取るのも落着いてするようにありたい。(中略)要するに行儀作法は一には社会の慣習の是とすることに従い、一には他人に迷惑を及さず悪感を与えぬようにするのが必要なのである。

柔道の修行は自然それらの修養を助けるわけである。

形の練習においてはもちろん、乱捕の時も姿勢を正しうすることを教え、すべての運動は敏捷を貴ぶと同時に落着きを必要とし、稽古前後の礼を始めとし、道場において教うるところことごとく行儀作法の修養に資するということが出来るほどである。
ただ実際において、柔道家は皆かく実行しているものとはいわれぬ。それは柔道を修行するものが、柔道の肉体的練習、しかもその一部の事のみに心を用いて柔道の精神を了解せず、したがってその修養の方法に欠陥があるからである。

予はすべての柔道の修行者が、肉体的方面と同時に精神的方面の修行に留意して、技術の進歩に伴うて行儀作法においても遺憾のないようになってもらいたいと思う。道場において端坐するのもただ道場の規則だから端坐するのだと思っていると、その場合に苦痛を感ずるのみならず、家に帰ればすぐに自堕落になってしまう。(中略)道場において端坐するのは、人間として礼儀を正しうする時の必要なる姿勢である。

生活ぶり
次に生活ぶりである。生活は堅実な仕方を貴ぶのである。(中略)第一質素な生活を主義とすることが必要である。生活費を殖やすことの出来る場合にはまず役に立つ事にこれを用いなければならぬ。学生ならば身体を丈夫にするとか智徳を磨くとかいうような、実際に効果のある種類のことを選び、独立している人ならば、それらのほか、おのれの業務の発展とか、子孫のためとか、友人のため社会国家のためとかに裨益(ひえき)する事に費すようにし、体裁とか外見とかいうことに費すのは最後のこととしなければならぬ。この方針を守っていれば、金が不足するようなことはないから他人に対しておのれの体面を損することなく、したがっておのれの品格を保つことが出来るのである。
おのれに資力がないのに、生活費に多額の金を費すことは恥ずべきであるが、いかに粗服を纏い矮小の家に住むも、礼を失せず他人に迷惑を及さぬ以上は、何も恥ずることはない。
かくのごとき堅実なる生活をして実力を蓄えてこそ、他日おのれの力によって裕福な生活をすることの出来る境遇になり得るのである。

交際ぶり
次に交際ぶりであるが、これもその仕方いかんが大いに人の品格に関係を及すものである。人に交るには、まず言語をもっておのれの思想を発表することを要する。その言語の遣い方が大切である。往々思慮なく詰らぬことを相手構わず喋る人がある。そのような人はたちまち人から侮られ、大いにその人品を下げるものである。またみだりに人の批評をしたり、罵詈したりすることは害あって益のないことである。またよく考えないで、口から出任せに論理の立たぬ話をしたり卑猥な言葉を遣ったりすると、すぐに人から軽蔑される。そういう訳であるから人と交るには、第一言葉を慎まなければならぬ。
それから、また言行の不一致、自分勝手、他人の利害に無頓着なることなどは大いに人の品格を傷つけるものであるから、注意を要することである。

仕事ぶり
その次は仕事ぶりであるが、(中略)その立場を利用して自ら利しようとか、上役に阿(おもね)って特別に引立ててもらおうとかいうような了簡を起したりすれば、勢いその品格を傷つけることになる。
柔道教師が自ら養った、人より強いという資格を有しながら、不断はみだりにこれを用いず義のためとかおのれの正当の権利を守るためとか必要の場合にはいつでも用いる事を躊躇しないという心構をもって自重していると、その人に品格は備ってくるのである。
これに反して、もし人に煽てられて喧嘩を仕掛け、瞞着されたり利益をもって誘われて政治家の手先に使われたり、掛合事の依託を受けたりすることになると、全くその品格を失ってしまうわけである。(中略)

以上活動ぶり、交際ぶり、仕事ぶりとして段々に述べてきたことについて考えてみると、柔道の修行はいずれの方面からも、人に品格を備えしむるに有効のものである。

その武士道の流れを汲んで、品格を重んずべきことを教え、質素倹約信義廉恥を説くところから見ても、またその身心の力を最も有効に使用する方法の教えであって、人の身を立て志を遂げる道行の修養であるという事から考えても、その修行の結果として、品格は備ってこなければならぬ。

たまたまそのしからざるもののあるは、全く柔道の精神を忘れて技術の末に心をもっぱらにした結果であるといわなければならぬ。柔道を修行する者は、大いに警戒して自らその幣に陥らぬよう注意するはもちろん、他人にその欠陥を発見する時はこれを救う事を怠ってはならぬ。

理想
最後に品格は大いに理想に関係があるということを一言しよう。人間一切の行動は理想から割出されるのであるから、いかなる理想を有っているかということは人にとっては大切な問題である。理想が低ければ行動もおのずからそれに彩られて低くなり、それが高ければ行動も高くなり、したがって品格に影響してくるのである。名誉を得ようとする人には、すべての行動は名誉から割出され、利益を目的とする人はその目的から割出して行動することになり、権力を欲するものはその行動もまたその影響を受ける次第である。それらの慾が人間を支配する時は、人間は自己本位となり、おのずから賤しくなるものである。
人間は名誉利益権力以上の一層高き理想を懐いて、それから割出してきて行動することが願わしい。

柔道はおのれを完成し世を補益するということを終局の目的としているのであって、なんら自己の直接の慾望を満足せしめようとはしないのである。
したがって柔道の真意義を会得してその精神に基づいて行動する時はすべての行動は高尚なる理想から割出さるることとなるのであるから、その人の品格もおのずから高くなるわけである。

要するに柔道の一端を修むるに止まる時は品格は必ずしも備らぬが真正の柔道の修行の結果は自然品格を養うに至るということになるのである。

〈「柔道」第三巻第十一号 大正六年十一月〉